■FX用語 外貨預金

1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートル1世は約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らも偽名を使い使節団の一員となった。この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていたが、対オスマン軍事同盟のへの参加を各国に打診する外交使節をも兼ねていた。また使節の一員に身をやつしたのは、煩瑣な儀礼に縛られず自由に行動するためと、公的にはモスクワを離れていないと内外に示すためだった。主にオランダのアムステルダム(4ヶ月半)とイギリスのロンドン(3ヶ月)に長期滞在し、プロイセンのケーニヒスベルク、ドレスデン、ウィーンにも立ち寄った。 アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた。病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した[1]。ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。また整体師 の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学した。ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、900人を越える軍事や技術の専門家を連れ帰って、その知識をロシア人に教え込ませた。しかし外交上の目的だった軍事同盟の呼びかけは、当時の西欧の関心がオスマン帝国よりも、近々予想されるスペイン継承戦争に集中していたため失敗した。 大北方戦争 ポルタヴァの戦い1696年対トルコ戦争で粗大ごみ を占領したが、1699年にはポーランド、デンマークと反スウェーデン同盟を結び、バルト海方面に転じた。1700年スウェーデンと交戦状態に入るが、ナルヴァの戦いでカール12世の率いる少数精鋭の敵軍に惨敗した。しかし軍備増強に努め、ポーランドとの戦争に忙殺されるスウェーデン軍の隙をつき、1706年頃にはリヴォニア地方にまで進軍した。1708年カール12世がロシア領に侵攻し、ウクライナ・コサックの首長マゼーパと連合したが、ピョートルはこれをポルタヴァの戦いで大敗させた。カール12世はトルコに逃げたため故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親露派のアウグスト2世をポーランド王位に復帰させ、カレリアとリヴォニアを征服した。一方イスタンブルにいるカール12世はアフメト3世を説き伏せ、1711年トルコをロシアとの交戦に踏み切らせた。ピョートル率いるロシア軍はプルト川河畔でオスマン軍に包囲され敗北、カール12世の帰還、アゾフなど1696年トルコから奪った領土の返還を承認させられた。 しかし翌1712年からロシアは攻勢に転じ、ハンゲの海戦で歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍の成長を見せつけると同時にバルト海の覇権を獲得した。しかしこの事態は近隣諸国を警戒させ、ピョートルは圧力に屈してポーランドから撤退した。1718年にはスウェーデンと休戦交渉に入ったが、カール12世の急死で主戦派の妹ウルリカが王位を継ぐと、交渉は打ち切られた[2]。1721年イギリスの調停でニスタット条約が結ばれ、スウェーデンとロシアがバルト海の覇権を争った大北方戦争は、ロシアの勝利に終わった。ロシアはフィンランドを除き占領したバルト海沿岸地域のほとんどを獲得、トルコともパッサロヴィッツ条約を結んで決着をつけた。また1722年にはサファヴィー朝ペルシアを攻め、中央アジアに影響力を及ぼそうとした。1725年には20余りの不用品回収 に外交官を常駐させるに至った。 国内政策 自軍の兵士による略奪を制止するピョートルピョートルは幼い頃から本格的な軍事教練に熱中し、後に近衛軍の核となる連隊を組織させていた。親政初期から海軍を創設し、1696年に艦隊を使ってアゾフを陥落させ、大使節団でも海事を中心に学んだ。1700年ナルヴァでの敗北は彼にロシア陸海軍の装備・訓練の不足を痛感させ、本格的な軍事改革に着手させた。まず海軍省と砲兵学校を創設し、小銃・大砲・軍艦の増産を急ピッチで進めた。1705年には終身型の徴兵制度も導入、新設軍隊の兵士は西欧式の訓練を施された。 1698年に帰国すると、西欧化改革の始まりを示すべく大貴族の髭を切らせ、髭に課税して切るよう一般民衆にも強制した[3]。廷臣と役人にも西欧式正装を義務づけたほか、1700年にユリウス暦を導入した[4]。さらに1702年には宮廷改革に着手し、女性皇族が従っていた厳しい行動制限を撤廃して宮廷行事への出席を命じた[5]。 行政も改革の対象となり、スウェーデンやプロイセンなどをモデルにして整備された。中央政府では、1711年元老院が設置されてツァーリ不在時の政務を代行した。1718年には行政区分が改革され、50以上存在し役割の重複した官庁制度を廃止し、役割ごとに分けた9つの参議会制度に再編された。地方行政では1708年国内を8つの県に分けたが、1719年にさらに45の州に分けて統治した。経済政策にも積極的で、官営工場の設立や工業への保護育成政策も採られた。長く大規模な戦争や、新首都建設を支える莫大な費用を捻出するため、様々な物品に税をかけた。また効率の良い人頭税制度が、1718年から実施された。重い税負担や抜本的な組織改革は、一般民衆の反発をもって迎えられ、ドン・コサックや農民一揆などの反乱が相次いだ。また政府を担う官僚の教育不足や意識の低さによって、徴税や中央と末端との意思伝達がうまく進まないのが常だった。 貴族や教会に対しては、改革を通じてツァーリと国家への従属を要求していった。貴族に対しては、まず爵位制度が導入されて、古い大貴族が持つ称号は廃止された。1714年に慣習であった領地の分割相続制を禁じて長子相続制に移行させたため、長男以外のused truck は生活のために軍か政府で勤務するのを事実上強要された。国家勤務者は官等表で3種14等級にランクづけられた。国家奉仕のためには教育が必要不可欠であり、彼ら貴族の子弟のために、実業学校など様々な教育の場がもうけられた。[6]。またロシア正教会に対しても、国家による管理を徹底させた。イングランド国教会の制度に倣ったと考えられる。1700年以降、モスクワ総主教座は空位とされ、教会が持つ免税特権も奪われた。1720年には総主教座の廃止に踏み切り、教会を宗務院という国家の世俗機関の管轄下に置いた(ピョートル大帝による教会統制策参照)。 新都建設 1703年イングリア地方を占領すると、used trucks 川の河口にあるデルタ地帯に港湾都市の建設を開始した。ピョートルはこの都市に、「聖ペトロの街」を意味するサンクトペテルブルクというドイツ語名を付けた。ピョートルはペトロのロシア語形であり、この都市名は事実上、自分の名を冠したものとなった。この都市は白海のアルハンゲリスクに代わる新しい貿易港として、バルト海交易ルートの中継地点の役割を期待されていた。しかしこの一帯は湿地で、地盤が弱く洪水も頻発したため、年間数万人の労働力と大量の石を徴集して大規模な基礎工事に当たらせた。1712年に工事が完了すると、ピョートルはこの町に遷都し、大貴族や裕福な商人・職人を移住させた。1725年には人口4万人に達し、都としての威容をととのえていった。 ピョートルは1689年下級貴族の娘エウドキヤ・ロプーヒナと結婚し、3人の息子をもうけたが、成長したのは長男アレクセイだけだった[7]。ピョートルはこの敬虔なだけで何の取り柄もない妻を疎んじ、1698年には彼女を修道院に追放した。また結婚直後から、外国人居留地出身のドイツ人女性アンナ・モンスを愛人としていた。1703年にはメーンシコフの家の召使マルファ(後のエカチェリーナ1世)をも愛人とし、1707年にはこのマルファと秘密結婚、1712年に正式に結婚して皇妃とした。マルファは戦争捕虜で、もとはリヴォニア地方の農民の娘だった。改宗しエカチェリーナと名乗ったマルファとの間には12人の子供が出来たが、成人したのはアンナ・ペトロヴナとエリザヴェータ(後の女帝)の娘2人だけである。娘アンナ・ペトロヴナと姪のエカチェリーナ、used truck for sale (後の女帝)の3人は、いずれもバルト海沿岸のドイツ人領邦君主に嫁し、ピョートルによるバルト海支配の重要な布石となった。 信仰心が強く西欧化に反発する息子アレクセイとは不仲で、彼の周囲には反体制派が集まって、無視できない勢力となった。1716年、アレクセイはウィーンに亡命したが、翌1717年ナポリでロシア政府に拘束され連れ戻された。ピョートルは息子が政府転覆の意思を持っていたと信じ込み、彼の支持者を粛清したうえでアレクセイの継承権を奪った。アレクセイは1718年に死刑を宣告され、その直後に獄死している。used trucks for sale の後継者の地位は、エカチェリーナが産んだ息子ピョートル・ペトロヴィチに移ったが、この幼い息子は1719年に死亡した。男子が一人も居なくなった皇帝は1722年、君主が後継者を生前に指名する形式の帝位継承法を定めている。晩年のピョートルは膀胱炎を患っていたが、真冬の海に入って溺れた漁師を助けたために病気が悪化し、1725年1月28日に死去した。後継者を選定しないままだったため、皇后がエカチェリーナ1世として後を継いだ。ピョートルは出世させた側近や新設の軍隊には人気があったが、その統治方針は大多数の貴族、聖職者、民衆には理解できないものであり、教会への圧力や外国人の登用、ラディカルな西欧化に反感が高まった。ピョートルを「反キリスト」や「ドイツ人がすり替わった偽物」と考えなければ、人々は皇帝の行動に納得できなかったのである。