■FX用語 外貨建定期預金

戚 継光(せき けいこう、嘉靖7年(1528年)11月12日 - 万暦15年(1587年)1月2日)は、中国の明代の武将である。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。字は元敬。諡は武毅。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。 登州衛(山東省蓬莱県)の出身。FX を中心に密貿易を行っていた倭寇(後期倭寇と呼ばれる)の討伐に従事する。浙江省金華・義烏で兵を集め、“戚家軍”と呼ばれる自身の精兵、水軍を組織する。胡宗憲の指揮下で兪大猷、劉顕らとともに倭寇を討伐する。 1567年に海禁令が解かれて倭寇の活動が沈静化すると北方防備に従事し、アルタン・ハンの侵入に対応する。大規模な万里の長城の補強・増築工事に取り組んだ。 こうした武歴から内閣大学士で当時大きな権力を持っていた張居正に重用されるようになったが、張の死後、戚の功績を妬む者から弾劾され、免職された。その処置は3年後に撤回されるものの、まもなく失意のうちに世を去った。 人物 俗説では歴戦の勇将ながら大変な恐妻家であったとされ、「女房を恐れない男こそ真の勇者である」と言ったなど笑い話がいくつも伝えられている。 『紀效新書』『錬兵実紀』などの兵学書も残している。これらの兵法が清末に注目されるようになり、まず先物取引 の乱の鎮圧に当たった曽国藩がこれをもとに自らの軍を整備する。さらにしばらくして中国に対する日本の侵略がなされるようになると、倭寇を討伐した経歴を持つ戚継光の業績を称える風潮が起るようになった。日本でも、兵学にも一家言あった江戸時代の儒者・荻生徂徠が『紀效新書』を高く評価した。 ヌルハチ(努爾哈斉、満州語、明の嘉靖三十八年正月五日(1559年2月21日) - 明の天啓六年/後金の天命十一年八月十一日(1626年9月30日) 在位1616年 - 1626年)は中国後金の創始者。清の初代皇帝とされる。廟号は太祖。明や朝鮮では努爾哈赤と記される。 女真の統一 満州族の愛新覚羅氏出身。生まれについては諸説あり、はっきりとは不明である。 ヌルハチが生まれた頃の女真族は建州女真5部・海西女真4部・野人女真4部に分かれて、互いに激しく抗争していた。これを利用して明は朝貢の権利を分散させる事で飛びぬけて力の強い部族を出さないようにしていた。具体的な方法としては建州、海西女真の有力者300名に対して勅書を渡していた。ただしヌルハチが生まれたときには、土木の変でのエセン・ハーン侵攻にあたって勅書が無資格者の手に渡るなど混乱した上、期待していた壁代わりにまったくならなかった反省から、建州1000通、海西女真500通をそれぞれの首長に一括して渡すようになり、若干の権力集中が行われるような政策に転換している。しかしその反面、明も放っておけないほど武力抗争が激しくなっていた。 明の遼東司令官李成梁は一つ明がFX できる程の大きな勢力を作り、その後ろ盾になる事で女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチである。 李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、1589年(万暦十七年)には建州女真5部を統一した。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。 ヌルハチの急激な台頭に危機感を抱いた海西女真は、結束してヌルハチに領土割譲を求めたが、ヌルハチはこれをはねつけた。なお、この頃からヌルハチは自らの勢力を満州と呼び始めたとされる。 1593年(万暦二十一年)、ヌルハチ率いる満州軍は海西女真を中心とした九部族連合軍と激突し、完勝した。この戦いはグレの戦いと呼ばれる。これにより女真の諸部族はヌルハチに従うものが多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾されて更迭されている。 この時期は、明が豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていた事もあり、明による介入は少なかった。そこを衝いて1599年にヌルハチは、敵対した海西女真のハダ部を滅ぼした。この前年に秀吉軍が撤兵した事もあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをする事でヌルハチに対抗しようとした。 後金の建国、明との戦い 1616年(万暦四十四年)、ヌルハチは本拠地ヘFX でハーンの地位に就き、国号を金、元号を天命とした。前後してヌルハチは女真の民族名を満州(manju, 満洲)に改め、満州文字を定め、八旗制を創始して国家の基礎を打ち立てた。 1618年(天命三年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに味方して満州につらく当たる事、祖父と父が明に誤殺されたことなどが書かれている。明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフにおいて10万を号する満州軍と激突した(なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる)。数の上では満州の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できた事と、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることが出来た事などが幸いし、大勝した(サルフの戦い)。 サルフで明軍に大打撃を与えたヌルハチは、後ろ盾を失ったイェヘを吸収し、完全に女真を統一した。1621年(天命六年)、勢いに乗ったヌルハチは瀋陽・遼陽を相次いで陥落させ、遼陽、次いで瀋陽に遷都した。 1626年(天命十一年)、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとする。ところがその手前の寧遠城(現在の興城県城)に、名将袁崇煥がポルトガル製の紅夷大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃った。紅夷大砲の威力に満州軍は散々に討ち減らされ退却した。清の記録ではこの敗北の数日後にヌルハチは病死したとされるが、ヌルハチが大砲で傷を負い、これが原因で死去したとも推測されている。遺体は遼寧省瀋陽市東の郊外の福陵に葬られた。 ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子ホンタイジが後を継ぐ事になった。 ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとした事の現われとも見られる。 袁崇煥(えんすうかん、万暦12年(1584年) - 崇禎3年(1630年))は明末の武将。字は元素。現広東省東莞の客家出身で、その優れた軍略で遼東・遼西(現在の遼寧省南部)で後金の軍隊にたびたび勝利し、三国時代の名軍師諸葛孔明になぞらえてたたえられた。兵に対しても思いやり深い人物だったという。しかし、身内の明王朝内部に疑われて処刑された。 略歴 万暦47年(1619年)に35歳で科挙に合格して進士に及第したことからもわかるように、元は文官であった。福建地方の地方官として勤務していた頃から軍事について論じるのを好んだという逸話から、仕官した時点ですでに軍事に関心をもっていたと思われる。 天啓2年(1622年)に兵部職方主事に任じられた。このとき、変装して一人で敵陣営に行き、情報収集をして、寧遠城設置(あるいは改修)の戦略的重要性を強く感じたため、帰国後、女真族との国境地帯である遼東地方の防衛をすることを志願した。そして山海関の外郭として寧遠城(現在の興城県城)を築城した。この城は、城壁の高さは10.2m、城壁の厚さは基底部で約9.6m、上部で約7.7mあり、ほぼ方形で、4つの門をもっていた。そこに群臣の反対を押し切って、ポルトガルから最新式の大砲(「紅夷砲」)を取り寄せて城に設置し、充分に兵を訓練した。 天啓6年(1626年)1月、ヌルハチの後金軍が攻め寄せてきたがこれを撃退し(寧遠城の戦い)、この功績により兵部侍郎・遼東巡撫・主持関外軍事に任じられた。翌年、寧遠城と錦州城でホンタイジも撃退し、崇禎元年(1628年)には兵部尚書・右副都御史となった。 ホンタイジは長城を遠回りして北京を攻めることに方針を変え、不動産 に間諜(スパイ)を送り、宦官を買収し、袁崇煥が謀反をくわだてているという噂を流した。すると猜疑心の強い崇禎帝はいとも簡単にその噂を信じ、北京防衛のために急いで駆けつけた袁崇煥を、崇禎3年(1630年)9月、謀叛の疑いありとして凌遅刑にした。このことは、崇禎帝の代での明滅亡を決定的にした。 子孫 袁の処刑後、その一族は拠るところを失い流民となったが、袁の子袁文弼が後金の軍に入隊して功績を挙げ、それによってニングダ(寧古塔)の漢軍八旗に編入された。そのまま子孫は清に仕え、清末には富明阿が中国内地や新疆の反乱の鎮圧に活躍し、吉林将軍にまで昇進している。また、その子寿山も八旗兵を率いて光緒20年(1894年)から翌年にかけての日清戦争などで戦っている。さらに黒龍江将軍となり、光緒26年(1900年)の義和団事変では満州に攻め込んできたロシアの軍隊とも戦うが大敗し、妻子を手にかけた後自害した。 なお、金庸の小説『碧血剣』で遺児の袁承志が父の冤罪を晴らすために活躍する姿を描いているが、これはフィクションである。。