■FX用語 外貨建て
イングランド軍と国民の独立の過程が彼の考えに深い印象を与え、そしてイングランドの長老派教会がやがては王政復古に転じた無秩序ぶりの同じ恐怖が、テュレンヌをさらにカトリック教会の方へ向かわせた。彼と妻シャルロットの間で交わされた手紙には、どのように2人とも密接にこの事件での有効な証言を学んだかがみてとれる。2年後にシャルロットが死んで文通は終わり、ジャック=ベニーニュ・ボシュエ司教の熱弁と、テュレンヌの甥ブイヨン僧の説得で、彼はカトリック信仰に賛同したのである(1668年10月)。1667年、テュレンヌはさらに性分に合った空気の王軍へ戻り、フランス軍の南ネーデルラント侵攻を指揮した(普通はルイ14世指揮)。すぐにその後、今や王と和解したコンデ公は、フランシュ・コンテ地方を素早く征服してテュレンヌの戦功と競い合い、1668年2月にはネーデルラント継承戦争を終結に導いた。
対オランダ戦争
ルイ14世の1672年のオランダ戦争において、テュレンヌは、オランダ諸州を荒らしアムステルダム市の城門を開けさせた王の軍に同行した。ルイ14世がとったこの手段は、オラニエ公ヴィレム3世にさらに苦い抵抗運動を起こさせただけだった。ヴィレム3世は堤防を決壊させ、アムステルダム周囲の国土を水浸しにした。この英雄的な手段が完全にテュレンヌを牽制することになり、ルイ14世は指揮を放棄して現場を離れた。この事件の知らせはヨーロッパ中を駆けめぐり、戦闘がドイツに対して広がっていった。テュレンヌは、コンデ公がアルザスを押さえた間に、ライン川中流域で策略をもって勝利をおさめた。
ライモンド・モンテクッコリ1673年1月、
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は攻勢に出るふりをして、ドイツ内へ深く入り込み、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムに和平を結ばせた。同じ年の後半、有名な神聖ローマ帝国軍将軍ライモンド・モンテクッコリが完全にテュレンヌの裏をかいた。モンテクッコリは敵を避け、オランダ軍と連合してボンを戦略上の要地にしたのである。しかし1674年6月、テュレンヌはジンツハイムの戦いで勝利し、彼はライン宮中伯の宮内官となった。パリからの命令のもと、フランス軍は国土の遙か遠くまでを荒らし回り、トゥルクハイムの略奪を伴ったこの行為は常に、テュレンヌの名声の上で重大な汚点として数えられる。
秋、反フランス同盟が再び進軍し、彼らは再びテュレンヌの裏をかいた。中立都市ストラスブールの行動が、この町にあった橋から敵がライン川をわたることを許し、彼の失敗の原因となったのである。エンツハイムの戦いが続いて起こった。この戦いは、戦術上の勝利を証明したものだが、完全に勝利したとは言えなかった。12月初旬、連合軍はアルザスにとどまっていた。老齢の元帥は今や、自身の軍歴の最も思い切った遠征のまっただ中にいた。真冬に速やかで隠密の行軍が、ヴォージュの端から行われた。彼の初期の戦勝に鋭く従い、テュレンヌはトゥルクハイムの戦いで敵を追い払い、1675年1月5日に敵をひどく打ち負かして損害を与えた。都市住民が起こした抵抗運動の報復として、彼は軍を指揮して都市を略奪し、2週間もの間残された住民たちを虐殺した。わずか数週間で彼はアルザスを完全に取り戻した。
彼は夏の遠征で、彼はモンテクッコリと再び対峙した。両司令官による『チェス戦略』の一流の展開の後、ついにテュレンヌは、コンツェル・ブルッケの戦いでフランス軍が損失を被る結果となる、最後の戦いを挑むよう敵に強いた。1675年7月27日、最初の一斉射撃が、テュレンヌを戦死させた。彼の死の知らせは、フランス全土を悲嘆に陥れた。
遺産
テュレンヌの最も雄弁な同郷人らは、彼についての賛辞(eloges)を書いた。モンテクッコリはこう叫んだ。『尊敬してきたあの男が、今日死んだ!』("II est mort aujourd'hui un homme qui faisait honneur a l'homme !")
アンヴァリッドテュレンヌの遺体は、
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へ運ばれ、歴代のフランス王とともに埋葬された。1793年に過激な革命支持者らでさえ彼の亡骸に敬意を払い、彼らが王家の人々の亡骸をひとまとめにして墓へ再埋葬するという恥ずべき行いをする間、1800年9月22日まで、テュレンヌの亡骸をパリ植物園で保管していた。ナポレオン・ボナパルトが大元帥の亡骸を、パリ市内のオテル・デ・ザンヴァリッドへ移し、現在もそこにある。
ナポレオンは、全軍兵士に対し、偉大な司令官の一人としてテュレンヌの遠征を繰り返し学ぶよう勧めた。将軍としての彼の名誉は、当時のヨーロッパの他の将軍らに劣らず、その軍事的特徴が当時の戦術の芸術を集約するために、「かつてないほど大衆は戦争を精密に学んだ」(リーニュ公の談話より)。戦略上の慎重さと兵站術の精度が、小さな戦闘において輝かしい突進と組み合わされ、そして全ての状況のもと、成功であっても失敗であっても不変であった。テュレンヌの戦争に関する天才ぶりの顕著な点としておそらく明らかになったのだろう。彼は大規模な戦闘を避けた。『2、3の包囲戦と多くの戦闘』、テュレンヌは自身の格言としてこう述べた。そして、彼の偉大なるライヴァル大コンデが、最初の戦いにも最後の戦いにも、燦然たる輝きをもって登場したのとは違い、テュレンヌは日々向上していった。ナポレオンは『テュレンヌの天才ぶりは、年をとるごとに大胆になっていったことだ』と述べた そして後世の作家オーマール公は著作『コンデ公家の公爵史』(Histoire des princes de la maison de Conde)の中で、同じ見解を書いている。
一人の人間としてのテュレンヌは、飾り気のない性格をわずかにみせる、高潔な兵士で、機知に恵まれていた。しかし政治と知識の世界においては、彼は巧妙な陰謀家や詭弁家の手中にはまってほとんど無力であった。もし彼の道徳観が非難より勝らなければ、彼が生きていた頃は道徳が優勢であるというより、少なくともさらに禁欲的であった。彼は常設軍の司令官として本質的に行動をとった。彼は生涯を軍隊とともに過ごした。彼は兵士たちの信愛を勝ち取る術を知っていた。彼は希に見る寛大さで厳しい訓練を適度に柔和にし、彼の部下たちは司令官としてテュレンヌを崇拝するのと劣らず、同志として彼を愛していた。大コンデの天性がはるかに多才であったけれども、テュレンヌの天性は17世紀の戦術の芸術を最高傑作に仕立てたのである。小さく、犠牲の多い、そして非常に訓練を積んだ
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のため、そしてルイ14世時代の王朝戦争のため、テュレンヌは理想的な軍指導者として職務を果たした。
Torstenson Greve av Ortala、1603年8月17日 - 1651年4月7日)は、スウェーデンの将軍。三十年戦争後半のスウェーデン軍を率いた。砲兵将校出身ながら陸軍元帥まで上り詰めた、当時としては稀有な人物である。
近習から将校へ
1603年8月17日、トルステンソンはエルヴスボリ要塞の司令官トルステン・レンナートソンの息子に生まれた。15歳になるとグスタフ2世アドルフの近習となった。1621年から開始されたリヴォニア侵攻で初陣を経験し、リガ攻略にも加わった。続くスウェーデン・ポーランド戦争にも参加、この頃、グスタフ・アドルフはしばしばトルステンソンを直属の伝令将校として活用した。
トルステンソンの軍人としての資質を物語る逸話として次のようなものがある。ある戦いで伝令に派遣されたトルステンソンは、敵軍が動きを変えたため、王の命令が状況にそぐわないものであることに気がついた。そこでトルステンソンは自身の判断で命令を変更し、グスタフ・アドルフの下に戻ってそのことを報告した。王はトルステンソンの判断の正しさを認め、「レンナート、この命があるのは君のおかげだ。君は近習よりも将軍の装束の方が相応しい」と言ったという。1628年、ポーランド戦の功績が認められ、トルステンソンは中佐に昇進、連隊の指揮を任された。
三十年戦争
1630年、スウェーデンは三十年戦争に
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してドイツへ侵攻、スウェーデン戦争が開始された。この年、トルステンソンは大佐に昇進し、砲兵隊の指揮を任された。1631年、ブライテンフェルトの戦いでスウェーデン軍は皇帝軍を撃破、続くレヒ川の戦いでも勝利した。これら一連の戦いでトルステンソンは砲兵の指揮を執り、勝利に大きく貢献した。1632年、トルステンソンは将軍に昇進。しかし、アルテ・ベステで皇帝軍の捕虜となり、2年間にわたってインゴルシュタットに投獄された。この獄中生活でトルステンソンは体を壊し、その後亡くなるまで病躯に苦しめられた。1634年、開放されたトルステンソンは軍に復帰し、ヨハン・バネールの指揮下に入った。
1635年、フランスがスウェーデンと同盟を結んで三十年戦争に介入、フランス・スウェーデン戦争が開始された。スウェーデン軍は東ドイツに侵攻、1636年10月4日、ヴィットストックの戦いで皇帝軍を破った。この戦いでトルステンソンは右翼の指揮を執り、勝利に貢献した。その後、スウェーデン軍はポンメルンまで侵攻、1637年から1639年にかけて同地で戦いを繰り広げ、1639年4月14日、ケムニッツの戦いで皇帝軍を破った。1641年、獄中生活で体を患っていたトルステンソンは、休養のためにスウェーデンに帰国した。この際、女王クリスティーナの枢密院に入った。
司令官就任
1641年5月、スウェーデン軍総司令官のバネールが死亡、トルステンソンが総司令官ならびにポンメルン総督に選出された。陸軍元帥に昇進したトルステンソンは、再びドイツへ派遣された。1642年からトルステンソンはブランデンブルク、シレジア、モラヴィアに侵攻、皇帝軍の主要な要塞をすべて制圧し、ザクセン軍を撃破した。1642年10月23日、第二次ブライテンフェルトの戦いにおいて、皇帝軍に死傷5,000人、捕虜4,500人という多大な損害を与えて勝利した。
1643年、スウェーデンは
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に宣戦布告した。この時、トルステンソンは再びモラヴィア方面へ進出していたが、本国からの指令に従って急遽軍を返した。スウェーデン軍は電撃的な侵攻で1644年1月までにはユトランド半島を制圧、その後、救援のために派遣されてきたマティアス・ガラス率いる皇帝軍も迎撃した。海戦でもスウェーデン海軍がデンマーク海軍に勝利し、デンマークの敗勢は決定的なものとなった。1645年2月、ブレムセブルー条約が締結されてデンマークとの戦争は終結した。この戦争はトルステンソン戦争、あるいはハンニバル戦争とも呼ばれる。トルステンソンによるユトランド半島への急速な侵攻を、第二次ポエニ戦争でイタリア半島へ侵攻したハンニバルになぞらえたのである。
ヤンカウの戦い
デンマークの制圧を終えたトルステンソンは、三度ドイツへ戻った。1644年11月23日、ユーターボークの戦いで勝利したスウェーデン軍はボヘミアへ侵攻。1645年2月24日、帝都プラハの南南東わずか50キロの地点で皇帝軍と対峙した。このヤンカウの戦いにおいて、皇帝軍に死傷4,000人、捕虜4,500人という多大な損害を与えて壊滅させたスウェーデン軍はプラハの門前へ迫り、皇帝フェルディナント3世はレーゲンスブルク、リンツを経てウィーンへ逃亡した。このスウェーデン軍の圧勝を契機に、停滞していた講和会議が本格的に始動したものの、条約締結にはなお3年の歳月が必要であった。
目覚しい勝利を幾度も手にしたトルステンソンだったが、この頃にはますます体調が悪化しており、軍務が耐えがたくなっていた。1646年、トルステンソンは司令官を辞職、後任にはカール・グスタフ・ウランゲルが就任した。
スウェーデンに帰国したトルステンソンは、1647年にオルタラ伯爵に叙任された。1648年から1651年にかけて、トルステンソンはスウェーデンの西部諸州の総督を務めた。また、カール10世の軍事教官も務めた。1651年4月7日、トルステンソンはストックホルムで亡くなり、リッダルホルム教会に埋葬された。
評価
グスタフ・ホルンやヨハン・バネール、
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と並び、三十年戦争中のスウェーデン軍では指折りの将軍であった。1632年に捕虜となった後は体調を崩し、戦場でも担架に乗っていなければならないほど病弱だったが、その指揮能力は確固たるものだった。第二次ブライテンフェルトの戦いやヤンカウの戦いにおける目覚しい勝利はその表れである。トルステンソン戦争における電撃的な半島制圧など、戦略面でも優れた資質を見せた。また、砲兵将校から軍歴を開始し、元帥まで上り詰めたという稀有な軍人でもある。